これによると,「『左上右下』の考え方は飛鳥時代,遣唐使などを通じて中国から伝えられた。唐の時代,中国では『天帝は北辰(ほくしん)に座して南面す』との思想のもと,左が上位として尊ばれた。皇帝は不動の北極星を背に南に向かって座るのが善しとされ,皇帝から見ると、日は左の東から昇って右の西に沈む。日の昇る東は沈む西よりも尊く,ゆえに左が右よりも上位とされた。」とある。
さらに時代をさかのぼると,漢の高祖劉邦(りゅうほう)の死後,后(きさき)の諸呂(しょりょ)が権力をほしいままに,その一族を王として漢の天下を奪おうとしたため,太尉周勃(しゅうぼつ)が丞相(じょうしょう)陳平と謀って,軍に「呂氏のためにする者は右袒せよ、劉氏のためにする者は左袒せよ」と令したところ,全軍左袒したと伝える。これは,『史記』「呂后紀」の故事によっている。引用元は,下記。
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
https://kotobank.jp/word/左袒-510865